父は7歳の時に病気で他界した。
しかし、私は父の顔をはっきりと思い出せない。
人形町では珍しいことではない。
親友も同じ境遇だ。
写真は5枚存在する。
私が後ろから抱きついている写真が4枚、母と三人で撮った写真が1枚。
朧げにある記憶が写真からの想像なのか、実際の記憶なのかは、もはや分からない。
私は家についても、母の職業についても、はっきりと教えられたことはなかった。
父が何処の誰なのか、幼少期に考えたことなどなかった。
ただ、他界してしまったのだと思っていた。
しかし、不思議に思ったことは何回もあった。
周りの大人が私の父のことを殆ど知らないのである。
皆、表立っては口にしない。
何回か母の昔の客と思われる男性に家の前で声をかけられたことがある。
「お前は誰の子なんだ?」
しかし、母には聞けなかった。
母子の間で父の話はタブーだった。
私は母が悲しむと思ったからで、母は私が悲しむと思ったからである。
テレビで父親像が強い番組が放映されると、すぐにチャンネルを変えたほどだ。
私にとって、最悪なのは父の日の授業だった。
「お父さんの顔を描いてください。」
父の顔を思い出せないというと、想像で描けと言われた。
母子家庭が珍しい時代。
まして妾の子、且つ死別は稀だ。
”へのへのもへじ”を描いて怒られたのを今でも鮮明に覚えている。
小さく丸めて掃除の時間にゴミに混ぜてコッソリ捨ててきた。
母に見せたら気まずいからである。
それは大学生の時まで続いた。
ある時、海外に友達と旅行に行くことになった。
パスポート申請の為に、戸籍謄本を取得しに区役所に行った。
戸籍謄本には難解な日本語が書いてあった。
裁判記録である。
DNA鑑定の結果、認知されたということが明記されてあった。
聞いたことのない名字が書いてあった。
帰って母を問い詰めた。
父が上場企業の副社長をやっていたことや自分が長野の中堅ゼネコンの隠し子であることを知った。
私は嬉しかった。
自分の父親が思ったより大物だったからだ。
しかし、隠し子という言葉は引っ掛かった。
「自分は隠れてなんかいない」そう思った。
母は続けてこう言った。
「お父さんはあなたを愛していた。」
「私は養育費は断った。でも認知だけはしてほしいとお願いした。」
「お父さんには当時、大学生の娘が2人いて、彼女たちが結婚するまで待ってほしいと言われた。」
「でも、そのまま死んだ。」
「お父さんは母子を無責任に残すことを病院のベッドで男泣きしていた。それでお別れした。」
「亡くなった後、弁護士経由で認知を求めた。」
「DNA鑑定を経て貴方は認知された。」
私は父以上に母を尊敬した。